山本達夫

1949年東京生まれ。
高校時代に結成したグループ「宿屋の飯盛」で、のちに「飛んでみたのさ」などのレコードアルバムをリリース。
「ロードショー」や「雨の一日」など、楽曲提供も多数。いくつかの楽曲はYouTubeでも聴くことができる。
ロードショー
雨の一日
二月の海
夜汽車の音は遠い思い出
夕暮れ時
後ろ向きの気まぐれ

宿屋の飯盛

(清水宣晶:) この部屋は、東と南の二面に窓があって、
ものすごく見晴らしがいい場所ですね。

(山本達夫:) そう、見晴らしと日当たりはいいんだよ。
サンルームみたいなもんだから。
ただ、このマンションは古いんでね。
もう一回、震度5以上の地震がきたら危ないなと思って。

地震の時は、大丈夫でしたか?
(この日は、東日本大震災の5日後だった)

部屋の中に置いてある色んなものがいっぺんに倒れてきて。
もうこの家も築40年以上だからね、
今すぐではないにしても、
引越しも考えないとって思うよ。

お父さんは、もともと東京の生まれなんですか?

だいたい久が原と御嶽山。

大田区の出身なんですね。

そう、ずっと大田区で、
大井町に自分で碁会所を開くっていう時に、
ここに移って来たんだよね。

碁会所を開く前から、
碁は打ってたんですか?

あちこちの碁会所に顔出してたんだけど、
でも碁ばっか打ってるとさ、
「仕事もしないで」って言われるだろ?
それが、自分で碁会所開いてれば、碁を打ってても
「仕事ご苦労さまです」って言われるんだよ。

なるほど!

それと、同じことで、
ギターばっかり弾いてると
「勉強もしないで」って言われるけど、
仕事だったら「ご苦労さまです」になる。
だから仕事にしちゃえ、って。
昔っから、そういう、
好きなこと以外やらないタイプだったんだね。

音楽は、
小さい時から好きだったんですか?

親父が、音楽が好きでね。
それはクラシックだったんだけど、
娘にピアノを習わせたいっていうのが夢だったらしくて。

はい。

で、お姉ちゃんがやってるなら僕もやりたい、って言って、
5歳の時から中学に入るまで、
7年ぐらい習ったのかな。
それで高校の時、バンドをやろうってことになって。
「宿屋の飯盛」っていう、変な名前なんだけど。

「宿屋の飯盛」っていうのは、
どこからとった名前なんですか?

江戸時代の狂歌師で、そういうのがいたんだよ。
宿屋飯盛は大田蜀山人の次ぐらいに有名な歌人で、
ナンバー2ぐらいになるのかな。
俺らのやってるのも、狂ってる歌だってことで、
そっから取ったんだけどね。

その、由来からして
パンクですね(笑)

そのバンドで、コロンビアレコードってところから、
アルバムを2枚と、シングルを4枚出して。


高校生の時ですか!?

いや、高校の時作ったのは、初代「宿屋の飯盛」で、
その時はまだ、アマチュアだね。

卒業してからも、
同じバンド名で活動を続けてたんですね。

僕は慶応の文学部に行ったんだけど、
僕が最初に受験した年っていうのは、
東大の入試が中止になった年で。

学生運動が激しかった時期と、
ちょうど重なってるんですね。

その時はもう、スゴかったんだよ。
毎日、血の跡が地面に残ってるような感じで、
授業がないんだよ。
結局、4月もない、5月もない、って。
ちょうどその頃、レコード会社から、
プロになりませんか?って話しがきて。

それで大学を中退したんですか?

そう、だからもう、
大学に入ったっていっても、
ほとんど行ってないも同然だよね。

すぐにデビューして、
アルバムまで出るっていうのはスゴいことですね。

そう、シングル1枚出てさようなら、
っていう人が圧倒的に多い中だったから、
結構面白いグループだったんだよね。
女子学生向けの甘い歌なんて作って、
それがヒットしたりすると、
「あいつは日和見だ」なんて言われたりね。

「軟派な歌を歌いやがって」って。

でも、僕らも食っていかなきゃいけないからね。
だんだん時代は変わってきてたし、その変化も感じてた。
一時期、今のオリコンでいうと、
チャートの2位と18位くらいに同時に載ったことがあって。
作詞・作曲:山本達夫、っていう名前を見た人たちから、
仕事がいっぺんに来た時期があってね。
そこで稼がなきゃ、ってことで、
夜も寝ないで頑張った時に、倒れちゃったわけだよ。

働きすぎたんですね。

血胸っていう病気になって、
腐った血を抜きながら、新しい血を入れていって、
輸血を10本くらいしたのかな。
それで、あまり無理が出来なくなっちゃって。
恭子が生まれたのも、ちょうどその頃だったんだよ。

はい。

で、今度は、車椅子になるきっかけになった、
脊髄動静脈奇形っていう病気になって、
音楽は完全に止めなさい、ってドクターストップがかかって。

それで、
碁会所を開くことにしたんですね。

最初はね、碁会所は世を忍ぶ仮の姿で、
もういっぺん、音楽家に戻れればいいなって思ってたんだけど。
なかなか、それだけの体力もつかなかったから。

恭ちゃん(山本恭子)の結婚式の時は、
じゃあ、自作の歌を披露するっていうのは、
だいぶ久しぶりだったんですね。

そうだよ!
だから、ちょっと、アガったよ。
でも、やり始めたらさ、
ワッと笑ってくれたりして、ウケたからさ。
それで落ちついたっていうか。
なんとかね、お客様の力もあって。

最初、笑いをもってきて、
あとでしんみりするっていう、
そういうところでも、
心を動かされる歌だったです。

やっぱりああやって、曲を作って人前で歌う、ってことになれば、
プロ意識みたいなものは、あるわけだよね。
そんなにお粗末なものは出来ないな、っていう。
だから結構、苦労したけどね。

作る時はだいぶ、考えましたか?

昔のアルバム写真を見ながら歌詞を作って、
ああ、軽井沢行ったな、北海道も行ったな、って
色々入れていったら、20分くらいになっちゃってね。
さすがに20分やったら恭子に怒られるだろう、と。

(笑)演奏の途中で、ストップが入りますね。

だから結局、しょうがなく、
「パパと恭ちゃんは仲良くて、いっぱいお出かけしたね」って、
一行に収めちゃったわけだよ。

ああ、、
その一行の中に、
色んなエピソードが凝縮されてたんですね。

そうやって削っても、11分になっちゃって。
だから恭子には、前もって、
「トイレの神様」よりは長くなるぞ、って言ってあったんだけどね。

ぶはははははは!
それは、わかりやすい基準ですね。

音楽長屋

(山本洋子:) ただいま。

おかえりなさい。
お母さんも、ちょっと話しに加わってください。
お二人は、早い時期に結婚したんですよね?

そう、二十歳で。

ものすごく若いですね。
どこで知り合ったんですか?

最初に見たのは、コンサートで。

コンサートで!

この家に引っ越す前の大田区の家っていうのが、
一戸建ての大きな家だったんですよ。
そこはもう、色んな人が住みついてた家だったんです。


え!?
食客を養ってたんですか?

それを話すとまた長くなっちゃうんだけどね、
フォークの、何が肝かっていうと、
音楽業界とかレコード会社とかと関係なく、
自分の言葉で自分の生活を歌うことなんだ、と。
それで、アマとかプロとか関係なく活動出来るようにするために、
「音楽長屋」っていう活動体を作ったんだよ。
それで、全国の色んな場所に拠点が出来てね。

自宅に、演奏家だとか、
演奏はしないけど応援する人だとか、
いっぱい住んでたのよ。


そうこうしてるうちに、プロになったんだけど、
北海道にツアーに行ったりして帰ってくると、
家に知らない人が住んでて、
「どなたですか?」って聞かれるんだよね。

家主なのにね。

(笑)すごい話しだ!

多い時で、23人ぐらい泊まってたんだよ。
押入れん中まで。

それ、最初は、
お父さん一人で一軒家に住んでたんですか?

もともと親父の持ち家なんだけど、
会社の本社が堺にあったから、
その頃は、向こうに引越しちゃってて。
一人で住んでたもんだから、
絶好のたまり場になっちゃってた。

いいなあ、そういう混沌とした場所。

(肩の下ぐらいを掌で示して)
その頃、パパは、髪の毛がこんな長くて。
で、その家でコンサートをやるっていう時に、
私の友達に誘われて、聴きにいって。
そこで初めて話したのよね。


自宅でコンサートまでやっちゃうんですね。

16畳ぐらいの広間の、
半分がステージで、半分を客席にして。
自宅だから、無料だったわよね?


その頃は、色んなところでやったんだ。
お寺でやったり、風呂屋でやったり。

今よりもずっと、自由ですね。

表現手段としてのフォークっていうものが、
僕は面白いって思ったわけだよ。
今まで閉じこもりがちだった若者が、
ギターを持って歌にすることで表現する、っていう。
それがフォークっていうものの原則でね。
プロの水準からしたらダメだとしても、
一箇所すごく光るものがある、とか、
そういうのが大事なんじゃないか、って。
音楽業界とか、レーベルの都合で、
それを潰しちゃってはダメなんじゃないかと。

今は、また、
レーベルから独立して音楽の自主制作も
発表もしやすい環境になってるから、
インディーズでも活動しやすくなってますね。

こっちはもう、還暦も過ぎちゃったから、
死ぬ前に一回ぐらいコンサートでもやるかってことは言ってるんだよ。
恭子にも「やれやれ」ってけしかけられてるんだけどね。
そん時は、昔の曲をやるだけじゃなくて、
新しい曲を10曲ぐらい入れたいね。

家族の姿

山本家では、家族同士で、
すごく対話がありますよね。

恭子を育てた時には、
僕は自由業だったでしょ。
だから、お風呂に入れたり、おむつを替えたり、
そういうことが出来たわけだよ。
麻子が生まれた時は、もう碁会所を開いた後だったから、
あんまり出来なかったんだけど。
だから、変わった父親だったと思うよ。

当時は、そういう父親って
あんまりいなかったでしょうね。

僕は子供に、勉強しろって言ったことは一度もないから。
むしろ、「学校休んで僕と遊びに行かない?」って言って、
子供のほうが困ってた。

(笑)子供のほうが恐縮する、っていう。

教育っていうのはね、親としても、あんまりやる必要はないんだよ。
それよりも、本を読ませること。
小さい時は毎晩、僕か女房が絵本を読んでた。
酒飲むと、途中で話し変えちゃったりして、
「昨日と違う!」って言われるんだけどね。
大事なのは、国語力と、
あとは、感動を共有するっていうこと。
一緒に旅行に行ったり、星空を見て「キレイだね」っていって。
一緒にいい絵を見て、いい音楽を聴いて。
それが出来れば、あとは何もいらない。

いいですね。
下地さえ整えば、
あとは自分で勉強するようになりますよね。

なんで勉強しろって言わなかったかっていうと、
僕が勉強が嫌いだったから。
恭子には、「自分で調べる」ってことを教えるためにね、
ウソばっかり教えたよ。
公園行くでしょ、
チューリップが咲いてるとさ、
「恭ちゃん、これ、ヒマワリだよ」。
で、ハトがいると、
「これはライオンっていうんだ」って。

ぶはははははは!
すごい!!

横で聞いてるママは、かわいそうだと思って、
ホントのことを言っちゃうんだけど、
パパとママで違うこと言ってるから、
本人は困って、自分で調べるしかないんだよね。
で、図鑑を買ってくれっていうんで、買ってあげたらね、
「パパ、うそつき!」って言われちゃって。

結構ハイリスクですね、その教育。

面白いんだよな、子供ってのは。
親は、育ててやってるんだから、
そのぐらい遊んだっていいじゃん。

(山本恭子:) ただいま。

おかえりなさい。
ちょっと、恭ちゃんも、話しに加わってちょうだい。

だいぶ、話し聞けた?

もう3時間くらい、
お父さん、話し続けだよ。

今までにも、
私の友達が随分、お父さんに会いに来たの。


昔っから、僕ぐらい、
娘の友達のことを知ってる親はいないと思うよ。
女の子だからっていうこともあって、
よく話しをしてて、友達のこともだいたい知ってるからさ。

だから、この前、披露宴に出席した私の友達のことも、
だいたい知ってたの。


今ね、教育の話しをしてたんだよ。
ハトをライオンって教えたことだとか。

それ、タメになる話しなのかしら。

いい話しだと思うよ。

ウチの場合は、娘たちにも色々と迷惑をかけたけど、
でも、子供に軽蔑されるような親ではなかったと思ってる。
それなりにね。
子供にとっての不幸ってのはさ、貧困じゃないんだよ。
夫婦仲が悪いのが不幸なんであって。
だから、家族が元気で集まっていればね、
家族みんなで貧乏っていうのは耐えられるんだよ。

それは本当に、そう思います。

恭ちゃん、おかわり(日本酒を)。

一人で飲んでる。

おしゃべりでしょう?

こうやって、いつも、
お父さんの話しをみんなで聞いてるんですね。

まあ、要するに、
いつもこんな感じなんだよ、
我が家ってのは。
(2011年3月 大井町 山本家にて)


清水宣晶からの紹介】
恭ちゃん(山本恭子)の結婚披露宴で、
父親から贈る言葉代わりにピアノの弾き語りで歌った自作の曲には、
聴く人全員を圧倒させるような、感動的なメッセージが込められていた。
こんなにも心揺さぶられる、贈る歌を聴いたのは初めてだった。

それもそのはずで、お父さんは、
自分自身の魂を言葉に込めて歌にのせることに人生を賭けた、
全共闘世代のフォークソングライターだったのだ。

30年もの間封印していた音楽への思いを解き放ったのが、
披露宴での、娘に贈るラブソングだったというのは、
いかにも山本達夫という人物にふさわしい、ロマンチックな話しだ。


今回のインタビューで、初めてだった経験が2つがあった。
一つには、自分の父親世代の話しを聞けたということ。
もう一つは、恭ちゃん麻子ちゃん、そしてお母さんを含めた「山本家」という家族全体の姿を伺うことが出来たということ。

僕の知らない時代を生きてきて、
数多くの経験を積み重ねてきた人の言葉には、
やはり、同世代の友人と話す時とは違う深みがあり、
音楽、文学、哲学、政治、歴史、と
ボーダーレスに展開される知識の幅広さには、
ただ圧倒されるばかりだった。

お父さんには、5時間にわたり、ぶっつづけで話しを聞かせてもらった後、
更にお願いをして、将棋を一局、手合わせしてもらい、
1時間あまりの間、今度は無言で盤面を睨みあう。
将棋でもやはりかなわず、
再戦を期して、その日は山本家をあとにした。

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