木戸寛孝

・世界連邦21世紀フォーラム代表
 http://www.wfmjapan.com/

・Job-web自分未来塾「未来学」講師
 http://mirai.jobweb.jp/

・CARE-WAVE AID チーフ・ディレクター
 http://www.geocities.jp/carewavejapan/carewaveaid.html

・(株)umari 
 http://www.umari.jp/


1969年9月22日生まれ。 B型

慶応大学法学部政治学科卒業後、(株)電通に入社。

同社退社後、2003年3月まで千葉県香取市で農業に従事。

2000年には国連ミレニアム・サミット世界宗教者・精神指導者会議に参加。

2003年11月から2007年8月まで、国際NGO世界連邦運動協会(http://www.wfmjapan.org/)の事務局次長として、2002年オランダ・ハーグに常設された国際刑事裁判所に日本政府が加盟するためのロビー活動を行う。(日本政府は2008年10月にICCに加盟。)

2007年、「和音の書」という勉強会を開催。
http://www.shienjuku.com/cat/0701_waon/

2007年6月から、CARE-WAVE実行委員会のディレクターを務める。

2008年、「今事記」という勉強会を開催。
http://www.rcf.co.jp/indexkonjiki.html

2008年1月より、ハウトゥだけでなく、哲学、歴史、文化といった幅広い教養を身につけることを目的に開校されたJob-web自分未来塾に、コンセプターおよび未来学の講師として参画する。
(2009年3月 赤坂見附「ロイヤルホスト」にて)

自己実現ではなく「自己存在」を探究する

(清水宣晶:) 木戸さんからは、
聞きたい話しは山ほどあるんですが、
今日は、木戸さんの人生観をメインに聞きたいと思ってるんです。

(木戸寛孝:) はたから見たら、仕事なにしてるの?って感じだろうから、
人生観みたいな抽象的な切り口から質問されることが、
しばしばなんだよね(笑)。
みんな「自己“実現”」ってことばかりを言うけど、
そこの部分にはあんまり興味がなくて・・、
それより「自己“存在”」っていうものに興味がある。

「自己実現」っていうと、
主体的に自分が何かを為し遂げたい、
っていう目的意識が最初にあると思うんですけど、
「自己存在」っていうのは、それと逆に、
目的意識を捨てないと考えられない気がしますね。

そうとも言えるかもね。
自分がどうして今のような価値観に辿り着いたかといえば、
明確な目標、目的意識があって、
それを達成していくプロセスから何かを学び得た、
というようなこととは、まったく逆でね。

はい。

今のニートじゃないけど、ある時、
発作的とでもいうか「意味の喪失」が自分の意識の中で起こって、
それで会社も辞め、それ以前と以後とでは肉体は同じかもしれないけど、
「心」は別の道を歩み始めたと思っている。
激しい「意味の喪失」に出会うと、自分にとって何がいいことで、
何が悪いことなのかを判断する「軸」がぶれてしまうので、
人生の方向性とかではなく「自分そのもの」を見失ってしまうんだよね。
これは、何か具体的な問題にぶつかって悩んでいるのとは、
まったく次元の違う感覚なんだよ。
でも、だからこそ外側ではなく、
「内」側に自分の意識を向けられるようになったんだけどね。

木戸さんが、以前に農業をやってたっていうことに、
僕はとても興味があるんですけれど、
それは、自分の内側に意識を向けようっていう気持ちもあったんですか?

農業をやったっていうのはね、
田舎暮らしがしたいとか、
土に触りたいとかっていう動機からでは全然なくて。
都会にある、情報のバグから解除されたかった。
農業をやったっていうことは結果的には良かったけれど、
あれは、森の中でもどこでもよくて、
とにかく静かな場所にいって、心を研ぎすませたかった。
もっと本音を言えば、コトタマと正面から対峙したかったし、
その環境を求めてたから。

情報の流れから遮断された環境に、
身を置きたかったんですね。

そうすると、
目的意識とは全然違ったところから、
泉のように湧き上がってくるイマジネーションがある。
俺がよく言うレトリックだけど、
「自ら(みずから)」ではなくて「自ずから(おのずから)」湧いてくるものがある。
そうすると、そこに本当の自分の軸があるってことが直感的に分かってくる。
そうすると今度は、自分との戦いでね。
それを確認したいあまりに、俺は人としゃべるの好きだし、すぐ動きたくなるわけ。
でも、そうするとズレるんだよね、逆に。
だから、きちっと腹がすわった心の構えが身につくまでは、
もっと自分を深めていく時間が必要で、
それにはあの四年間は自分にとって欠かせないものだったと思う。

それは、よくわかります。
独りになってじっと考えている時じゃないと、
湧いてこないものってありますね。

自己実現よりも自己存在に興味があるっていうのは、
別な切り口でいうなら、
己の中に「己以上のもの」があって、
その己以上のものが、自分に何を要求しているのかを
認識するのが一番肝心ってことなんだよ。
その認識した方向性にぶれることなく行動することで、
社会に具体的な働きを生み出すことができたら、
それに勝る幸せはないだろうね。
でも、本来の自分は、強い自我を持っていて、
目的とか意味とかを、必要以上に解釈したくなる一面も強く持っている。
それが手段ではなく目的化すると、
人にプレゼンテーションしながら、
聴衆を「おぉおっ!」って思わせることはできたとしても、
自分の内なる声からは、
「全然違うんじゃないの?」って言われたりするんだよね。

表面的には上手くいってるように見えても、
内側の自分自身は騙せないから、
違和感を感じちゃうんでしょうね。

そうすると、
「自ずから」湧き上がってくるものからはかけ離れていってしまう。
その、自ずから湧き上がってくるものが、世界の中心軸だから、
そこに自分の軸をポジショニングしていきたい、っていう思いがある。
自由って、自分の思い通りになることじゃないんだよ。
自由っていうのは、ネイチャーとかコスモスというような、
人類に先だって存在する生命の基盤のようなものがあって、
その根源に自分を引き寄せて、
同調していくプロセスにおいて達成されるものなんじゃないかな。

「自分の意思」が主役じゃないってことですね。
何か根源的なものに同調したい、
っていう意思があるだけで。

そうそう。
で、これが難しいところで、
自分で意思した瞬間に思いっきりズレたりすることも多々あったりするわけ。
意外と、人様に説明しにくいような、
うだつの上がらない状態の時の方が、
純粋に世界と対峙していたりするかもしれないんだよね。(笑)

ああ!
それはわかります。
目的を持って、それに向かって忙しく動いてる時って、
いろいろ達成してる気分にはなるけれど、
中心軸っていうものからは外れていってることが多い気がします。

生きてるっていうのは、
何かしら意志決定をし、具体的な行動をとって、
はじめて自分の人生が切り拓かれていくものだと思う。
でも、この三次元の中で掴み取ったものっていうのは、
常に効果と逆効果が五分と五分でせめぎ合う。
だから、安易に掴みとらずにじっと内観しながら、
内側に入り込んで、世界を見極めることもまた必要なことなんだよ。
何故なら、意志決定も行動も、
何が最適な選択なのかを十分に吟味しなければ、意味を為さないからね。
でも、意識の中で自分を弄びすぎると、
そこにも意味喪失という落とし穴があることも忘れちゃいけない。

形あるものを追っても、形ないものを追っても、
意味喪失は起こるってことですか?

なんでかっていうと、
自分が人間であることを忘れちゃうわけ。

そこまで行きますか!?

行く行く。余裕で行くよ。
だからニーチェなんかが典型だけど、
天才といわれながらも、
多くの思想家や芸術家たちが発狂したり自殺しちゃうんだよ。

なるほど。
芸術家でも、突き抜けるとそうなっちゃいますね。

ちゃんと己が人間であるっていうことを忘れないためには、
自然というものに立脚したポジショニングから、
内的宇宙へと潜入していく必要がある。
だから、自分の立ち位置っていうものを、
色んな切り口から確認していくことが大切になってくる。
宇宙にも様々な多次元世界があって、
自分は、銀河系における太陽系宇宙の第三惑星に生息する人間であり、
そのポジショニングを踏み外すことなく自分のドメインが理解できてくると、
物事がクリアに見えてくるんだよね。
クリアに見えるっていうのは何かっていうと、
無理なく世界が見えてくるっていうこと。
無理がある、っていうのは「理(ことわり)が無い」ってことだからね。

あー!
そういうことですね。

自己“存在”を探究するっていうのは何かっていうと、
世界を見ている自分の「脳味噌の解像度を上げたい」っていうことなんだよね。
解像度が上がってくると、
自分の周りに広がっている世界が、
「すげぇ!」「やばい!」っていうことだらけになってくる。

ぶはははははは!
その、解像度が上がる、
っていう表現はわかりやすいですね。
顕微鏡で見える世界や、
天体望遠鏡で見える世界が日常の景色と違うのも、
人間の目と解像度が違うからですよね。

そう、それと同じように、
みんな同じ時空間にいながらも、
それぞれが違う解像度によって世界を解釈しているんだよね。
例えば、今まで読んでもわからなった本や詩や物語の意味が、
大人になってから理解出来るようになるってことがあるじゃない。
それが、世界に対して起こるんだよ。
それで、自分の解像度を上げていくっていう、
霊長類として人間に与えられた、
ある意味で最高の道楽にハマっていくんだよね。

うん。
たしかにこれは、
どこまででも好きなだけ極めていくことが出来る、
最高の道楽ですね。

「意味の喪失」が解像度を上げる契機になる

木戸さんが、今の考え方にたどり着くまでは、
いきなりそこに到達したわけじゃなくて、
色々な紆余曲折があったんですよね。

そうだね、
「意味の喪失」っていう圧力が自分に押し寄せてくる。
いきなり、今まですごい楽しんだり拘っていたことが突然、
「面白くない」ってことになってしまう。
だから、その姿は、はたから見たら、
無気力なダメ人間のように見えるんだろうな、きっと。
誰を責めるわけでもなく、
「意味を見出せねえんだよ・・」とかつぶやいたりしてるわけ。

ぶははははは!
それ、周りから見たら微妙ですね!

かなり微妙だよ。
でも「意味の喪失」を経験すると、否が応でも、
外に向いていた思考が「内」側にベクトル・チェンジするから、
その結果、楽しい経験とは言い難いけれど、
脳味噌のOSがバージョンアップされて、
世界を解像度高く見れるようになるんだよね。
目的意識から切り離された状態の時に初めて、
内から湧き上がってくるものがある。
だから、目的を持って外側ばかりに意識をフォーカスしているうちは、
内側からの発動ってのは、なかなか無いと思うよ。
烈(藤沢烈)は、皇居の周りを頻繁に走ってるらしいんだけど、
痩せすぎて今、走るのを抑えているんだって。
「走ってると気持ちよくて、自分が溶けてなくなっていく感じなんですよ」って言うから、
「お前、最高の道楽だな!」って言ってやったよ(笑)。

そこまでのストイックは、道楽ですよね。
マラソンで千日回峰行みたいなことをやってるっていう。

でもあれは、
ダイエットとか健康とか修行のために走ってるわけじゃないんだろうな。
そういった目的意識とは違って、
ある意味で「ただ走ること」だけに没頭している状態の中に、
何かしらフツフツと内側から湧き上がってくるものがあるってことを
体験しちゃってるんだな、あいつは。(笑)

僕が面白いと思うのは、木戸さんも烈も、
最初は電通やマッキンゼーで仕事をして、
強い目的志向を持っていたっていう経験を通過してるところなんですよ。
で、そこを経験しているからこそ、
逆のベクトルに振れたっていう。

そうかもしれないね。
新しいOSがインストールされるためには、
一度、すでにインストールされていた情報を初期化する必要がある。
社会のシステムも、人間と同様だと思う。
そのことをニーチェは、
アポローンとディオニーソスという、
ギリシャの神々の名を引用して説明していて、
「秩序」の象徴をアポローンと言い、
「混沌」の象徴をディオニーソスと言った。
そして、次の時代のアポローン(秩序)は、
古いアポローンを改革するプロセスから生まれてくるわけじゃないんだ。

いったん、
徹底的に叩き壊す必要があるってことですか?

創造的破壊が起こる。
でもそれは、アポローン(秩序)の中における、
自発的な意思による創造的破壊というようなお行儀のいいものじゃなくて、
アポローン(秩序)はディオニーソス(混沌)の世界に、
いわば無理矢理に投げ込まれて、その中で溶解してしまい、
それではじめてフェニックスのごとく
新たなアポローンが生まれてくるという、
エキサイティングな過程をたどるんだよね。

今の、世界的な不況っていうのも、
ディオニーソス(混沌)的な破壊が近づいている
っていうことなんでしょうか。

ディオーニソス(混沌)的破壊は、
ある意味で新たなものを生み出すために、
必然として起きているわけだけど、
清水とか俺らは何をやらなきゃいけないかっていうと、
そのディオニーソス的な状態に巻き込まれる必要なんて全くなくて、
その役は演じるべき人達に任せて、
内から湧き上がってくるイマジネーションに従って、
過去の固定概念にとらわれず未来に向かって、
新たなアポローン(秩序)を作ることだけに専念すればいい。
むしろ、その役に徹する覚悟こそが求められていると思う。
中途半端な常識なんて捨ててしまうような感じかな(笑)。
じゃないとディオニーソスに巻き込まれてしまう。

それは、ものすごく楽しそうですね!

ディオニーソス(混沌)は手段であって、
本質は新たなアポローン(秩序)にあるから、
勇気と好奇心をもって本質にフォーカスするかぎり、
全宇宙が味方してくれるはず。
それが、宇宙の意志だからね。

「ひとつ」と「ひとり」が結びつくと天才になる

自分自身の、世界を見る解像度を上げていくには、
どうしたらいいんでしょう。

おそらく、1回は、
既存の周辺情報からシャットアウトされる、
ディオニーソス(混沌)的な経験が必要なんじゃないかと思うね。
ジョーゼフ・キャンベルが、神話における英雄伝説は、
人間の魂が成長していくメタファーであると言ったけど、
その最初のステップが「共同体からの離脱」で、
そこから冒険が始まるわけ。
これも同じことで、
つまり共同体とは自分の中に埋め込まれた社会の一般常識や固定概念であって、
そこから切り離されることで、
自己存在を問うという探究がはじめて始まるということなんだと思う。

いったん、そういう、
共同体から離脱した状態に、
自分を強制的にもっていくわけですか?

自分の経験でいえば、
自分の意思でそういう状況に持っていけたら格好いいんだけど、
実際は、自分の意志に反したところで、
否が応でもそういう状況に引きずり込まれていった、
というのが本当かなぁ。

そうですよね。
自分ではあらかじめ意図出来ないものだからこそ、
意味があるんだと思います。

ただ面白いことに、
最初の経験では何が何だか分からず混乱状況に陥るんだけど、
それが2回、3回と繰り返されるうちに、
そのディオニーソス(混沌)的な創造的破壊を
ソフトランディングできる方法が身についてくるんだ。
一見すると不条理と思えるような状況にも意味を見出せるだけの思考回路、
つまり世界を見る解像度が経験によって上がっているわけだね。

なるほど。
「ああ、また例のやつが来たな」
っていう心構えが出来てくるんですね。

そう、世界と対峙するための作法みたいなものがわかってくる。
そして、それを危機としてではなく、
「サイン」として理解できるようになってくる。
そうすると、世界は自分を縛り付けるものではなくて、
語りかけてくるものとして見えてくるんだ。

面白いです。
順序として、自分の外側に向かいつつ、
そこからのフィードバックによって内側を充実させていく、
っていうやり方はどうなんでしょうか?

ありがちなのは、そのアクションの本当の動機は、
目的意識からではなくて、
他者から承認されたいという欲求のためにやってるんじゃないの?
ってことなんだよね。
それだと、自分の足元から出発していないから、
何かを達成したとしても満足感を得ることは難しいだろうし、
その結果、常に自分の外側の世界に翻弄され続けることになる。
まさに不毛の世界だよ。

そうですね。
内側がしっかり固まってないうちは、
外側からの経験もちゃんと定着しないんでしょうね。

進化っていうのは、
複雑性が増しながらも「一貫性」を保つということ。
一貫性って言うのは、
身のまわりの世界をどこまで「自分」に引き付けて
考えることができるかということで、
それによって世界に意味を見出すこともできるわけ。

自分に引き付ける、っていうのは、
自分自身のものにしている、
っていうような意味ですか?

その通り。
清水が発信しているこの「ヒトゴト」の情報も、
インタビューという形式をとることによって、
自分に引き付けたメッセージになっているっていう点で、
いいメディアになっていると思う。
でもネット社会ってさ、
うまく使いこなさないと「意味の喪失」を
加速させる仕組みになってると思うんだよね。

おお!?
それは、面白い話しですね。

なんでかっていうと、
今、携帯で検索するとウィキペディアみたいな情報が瞬時に出てきて、
それをタダでいくらでもコピー&ペースト出来てしまう時代でしょ。
だからそのことをよく知らなくても、
その情報をコピーしてしまえば、
あたかも自分の想像力に裏打ちされた知識であるかのような、
表面的な振る舞いが出来てしまう。
でも、そこには一番大切なものであるはずの「自分」がない。
果たして、そこに「意味」は存在するだろうか。

たしかに。
他の誰かが整理した考えまでがくっついて、
簡単に情報が検索出来るようになると、
自分に引きつけて考えるっていうことを、
だんだんやらなくなりますよね。

情報が拡散していない時代には、
自分の言葉だろうとそうじゃなかろうと、
情報のクオリティーの高さに価値があったんだけど、
今のように情報がここまで無料で拡散してしまうと、
状況が一転して、ある一定のクオリティーが担保されさえすれば、
「情報のオリジナリティー」こそが重要になってくる時代なんだよね。

それは、本当にその通りと思います。
僕は、編集されていない情報に意味はないと思っていて。
今は、情報を集める能力じゃなくて、
集めたデータを編集する能力がどれだけあるか、
ということにしか価値がないと思っています。

芸術でいえば、
イーコンにしろクラシック音楽にしろ古典文学にしろ、
何百年という年月を生き続ける作品は、
通称アカシックと言われる全人類が共通に保持している
普遍的な記憶のようなものを、
インスピレーションの源泉としていると思う。
でもその普遍的なインスピレーションが、
一人の芸術家を通じて何かしらカタチとして表現された時は、
当然のごとく各々によって違うものが創造される。
ここに、「一つ(ひとつ)なる普遍的なもの」と、
「一人(ひとり)なる個別的なもの」という
一見矛盾したものが、統合される過程が生まれる。

なるほど。
「美しさ」のイデアのような共通した概念があって、
それをどう表現するかっていうところに、
アーティストの能力や個性が出てくるってことですね。

本来は、世の中の全員が、
天才化していくべきだと思っている。
それは、そんなに難しいことじゃなくて、
天なる才というのは自分の力ではなくて天から与えられものだから、
自分の心を天に開いていけば、自ずとそうなっていくと思う。
天は、そこに通じる窓口を、誰にも平等に開放していると思う。
閉じているのは、むしろ自分の問題だと思うんだよね。

ラジオの電波みたいな、
みんなのところに送られているメッセージがあって、
それをチューニングを合わせて聴くような感じですね。

まさにその通り。
このテーマは、そもそも、
「人間の心はどこにあるのか」ということに行き着くんだよね。
昔から多くの賢者たちがこのことを自問自答して、
心臓であったり、脳であったりと、あれこれ思案してきた。
最先端の科学の中では、例えばプリブラムっていう脳科学者や、
デイビッド・ボームっていう素粒子物理学者みたいに、
「暗在系」といって、現象化しているその奥に、
より本質的な潜在としての場のようなものがあると考えている。

はい。

だから、人間の記憶も同様で、
心はあたかも脳にあるように感じるけど、
じつは、脳はあくまでも心の情報をキャッチする
「受信機」のようなものにすぎなくて、
その情報の実体は、ラジオの放送局のように、
どこか別のところから発信されているのではないか、
っていう仮説を立てている。

それは、イメージとして、
すごくよくわかります。

そうすると、
本当のリアリティーっていうのはどこにあるかっていうと、
ラジオの箱としての自分の身体の中にではなくて、
放送局の側にあるっていうことになるんだよね。
今後22世紀に向けて、
新たな人間観はこういう方向に進化していくと、自分は思っている。
まさに、人間の立ち位置の、宇宙的覚醒とでもいったらいいかな。

21世紀の維新は、意識の解像度を上げること

本来は、地球っていうのは自転・公転していて、
その上に自分たちは存在しているわけだけど、
俺たちには止まって世界が見えているわけじゃない。
天動説のほうが、本来の人間の直感としては正しいよね。
だけども、人間ていうのは何らかの客観的な方法で証明され、
それが権威によって承認されてしまうと、
いわば無条件にそういうものだと受け入れて、
一般常識化してしまう。

そうですね。
今は、地動説を疑う人はいないですけど、
それは自分自身の経験で理解したわけじゃなくて、
「そういうものだ」と知ってるっていうだけですね。

だから、
集合的無意識でつながっている、
っていうことだって、科学で証明された瞬間に、
「個」という概念ががらっと変わってしまうんだろうと思うよ。
他にも、たとえば、「命」や「記憶」が
輪廻のような形で循環しているっていうことがわかったら、
「死」に対する考えもまるで変わってしまうんじゃないかな。

その、意識の問題っていうのは、
客観的な証明を、
科学的に出すことが出来るものなんでしょうか?

たしかに、
今の常識では難しいとされているかもしれないけど、
道具の進化に合わせて、
科学がとらえられる世界の解像度が上がってきた時には、
どうなるかわからないよ。
今は量子力学って言うように、
量子という点で取り出せるドットの世界しか、
科学する対象にならないけれども、
それとはまったく次元を異にする新たな単位を発見し、
更にそれを解像できる実験装置が開発されたら、
世界はまったく違って見えてくるかもしれないよ。

なるほど!
そういえば、
新しい世界観っていうのは常に、
新しい観測機器の発明と対になってますね。

天動説を広めたのはガリレオってことになってるけど、
その説自体はコペルニクスが約100年も前から言っている。
でも、何でガリレオが分岐点になっているかといったら、
望遠鏡という道具によって、自論を証明したからだと思うんだよね。
それで、誰も文句を言えなくなった。
集合無意識やアカシック、他にも輪廻なども同様に、
けっこう古代の叡智では語り尽くされていることなんだけど、
それが社会の中で一般常識化するためには、
新たな単位の発見と、解像度を上げる道具の開発の両方が必要なんだよね。
その二つが揃った瞬間に、現在は高度情報化社会だから、
一夜にして世界に対する認識は変わってしまうと思う。
今からその時が楽しみで仕方がない。
世界が変わるんじゃなくて、人間の世界観が変わるだけなんだけどね。
これが21世紀の維新の姿。

木戸さんの言っている世界観というのも、
木戸さんはずっと同じ事を言い続けてきて、
同じ場所を掘り続けているわけですけど、
時代が回転して、変化してきたことで、
共感する人の数がだんだん増えてきているんじゃないかと、
僕は思ってます。

確かに、この2年くらいで風向きが変わってきていて、
多くの人達と考えをシェア出来るようになっているような気がするね。。
それまでは完全に亜流だったから(笑)。
単にニューエイジみたいな感覚ではなく、
新なた社会をつくり出していく文脈の中で、
こういう切り口をコミュニケーションしていけるようになってきたことが、
本当に嬉しくてね。
全員ではないにしても、
同じ世界観を共有できる人がいるっていうことは、
探究する者にとってはすごく有り難いことであって、
心の支えになると思う。
それは、手前味噌な承認欲求とかとはまた別なものなんだよね。

自分が認められるっていうことよりも、
自分以外の人と世界を共有出来るっていう喜びですね。

そう。
自分の世界観を強要することはしたくないけど、
自分の中に何かしらの気づきがあれば、
それを表現したくなるというのは人間の本能だと思う。
更に、それをシェア出来た時の喜びっていうのは、
自我の押しつけとは全く違うもので、
創発を生む力を秘めていると思うんだよね。
「和」とはいったい何かと考えた時に、
たとえば、俺と清水とが、
なんとなく絶妙なハーモニーを作り出せている時っていうのは、
俺たちが直接つながっているんじゃなくて、
第三極点としてのここ(テーブルの上のガムシロップを指して)、

つまりアカシックでつながっているのであって、
そうすることで阿吽の呼吸になれる。

ここ

でつながってるわけですね!

俺たちがさ、将棋の駒だとすると、
自己実現とかいったりして、
「歩」からどこまで出世できるか、
みたいなことばかりに意識を奪われているのが現実社会なんだけど、
本来は「歩」であろうと「王」であろうと、
自分の役割を演じきることが重要なんであって、
しかもマクロ的な現実としては、
駒そのものはどう進むかは自分では決められないという宿めがある。
何故なら、その方針は、
自分たちが存在する盤の外にいる「指し手」が決めることだから。
僕は特定の宗教には属していないけど、
世界観としては有神論者と思ってもらって構わない。
つまり、この文脈で言えば、
俺とか清水っていうのは、駒ではあるんだけど、
指し手が何を考えているかを問い始めてしまった駒なわけだよ。
でも、自分では動けない(笑)。
だって、自分の意志で心臓を鳴らしてるわけじゃないでしょ。
自己実現ではなく、「自己存在」という切り口を深めていくと、
受動的にならざるを得ない。
生きているのではなく「生かされている」という風にね。
でも、その気づきは「意味の喪失」ではなく、
世界への好奇心と感謝を自分にもたらしてくれるものなんだよ。

そうですね。
自分では動けないとしても、
指し手が望んでいるラインに乗った、
ブレのない一手は何なのか知りたい、
っていう気持ちはあります。

嬉しいよ、こういう話しが出来て。
この、今、清水と話している時間もそうなんだけど、
これは、本当に「感謝」だよ。
で、誰に感謝するか、って言ったら、
清水を通して、ここ(ガムシロップを指して)に感謝する。

何故かっていうと、ここを二人が共有しているから。
こういう時間は最高だね、すごく創発されたよ。
ありがとう。
(2009年3月 赤坂見附「ロイヤルホスト」にて)

清水宣晶からの紹介】
木戸さんは子供のような人だと、会うたびに思う。
純粋な好奇心と遊び心に満ちていて、目をキラキラさせながら、話しを始めると泉のようにどんどんと言葉が湧き出てくる。
どれほどの勉強をして、どれだけの経験を積めば木戸さんの話しを余すことなく理解出来るようになるのだろうと、話しを聞きながら気が遠くなることもある。

木戸さんは、桂小五郎(木戸孝允)を先祖にもった人だけれど、その、思想の先見性と影響力と好奇心の強さは、むしろ、吉田松陰を連想させる。
あるいは、様々なネットワークを駆使しながら、惜しみなくその経験と知恵とを分け与えて後進を育てて行く懐の深さは、勝海舟に似ているかもしれない。

木戸さんという高い山を知ることで、僕は、世の中にまだまだ自分の知らない面白いことがたくさんあるということを教えてもらった。
後から振り返った時に、木戸さんと出会ったことが大きなターニングポイントだったと、今よりも更に強く思うことになるだろうという気がしている。(2009年3月)

先日、渋谷の街角を歩いている時、木戸さんにばったり会った。
3年前に木戸さんから聞いた話しがずっと心の中に残っていた僕は、東日本の震災を経た今、あらためて木戸さんと話しをしたいと思っていて、そういうタイミングでの今回の邂逅だった。
木戸さんと話しをすると、いつも、新しい気づきが自分の中にたくさん生まれて、会った後、とても元気が出る。
僕はこの先もまた、時代の節目といえるような転換点に立ち会うたび、木戸さんの言葉のひとつひとつを思い出して、考える材料にするのだろうと思う。(2012年10月)

対話集


公開インタビュー


参加型ワークショップ