竹下羅理崇定部

竹下・ラリー・スティーブ
英名はLarry Steve Mcintyre JR

長崎県佐世保市出身

小さい時は「普通」に憧れ、自分らしさを見失っていた気がする。
今は自分が他と違うbackgroundであることが楽しくてしょうがない。

Keyword:
自己表現、手話、子供、サポート、お笑い、音楽、ダンス、バレーバール、バスケットボール、パラサイヨ、頑固、わがまま、なるようになる。

http://www.parasaiyo.net/
(2011年12月 川崎「WIRED CAFE」にて)

定時制高校と公立大学への進学

(清水宣晶:) この前、
スティーブのお母さんに初めてお会いしたけど、
すごく気さくで、明るい感じの人だったね。

(竹下羅理崇定部:) それは、ウチの家系なんだと思う。
おばあちゃんのことを「おふくろ」って呼ぶ人が、
周りにたくさんいたんだよね。

なんか、お店とかやってたの?

そういうわけじゃなかったんだけど、
母親の弟の友達なんかが居ついてて、
帰ると、知らない人が住んでる、みたいなことがあった。

粋だねえ!
食客を養うような家だったんだな。

それとまったく同じように、
僕の弟の友達でも、
「あれ?この子、住んでる?」ぐらいの感じの人がいて、
そのお礼に、米が20kgぐらい送られてきたりね。

お母さんは、
アメリカに住んでたことはあるの?

住んでなかったんだけど、
もともと英語に興味があって、普通にしゃべれてた。

なんでだろう?
長崎に外国の人が多いからなのかな?

おばあちゃんが面白い人で、
外国人でも臆することなくコミュニケーションして、
趣味がNBAとかNFLを観ること、みたいな人だった。

(笑)スゴいおばあちゃんだね!
だって、完全に戦争を経験してる世代でしょ?

そう、昭和4年生まれだったからね。
ファンキーなおばあちゃんですよ。

スティーブは、
佐世保基地の中の学校に通ってたの?

中学校までは、
米軍基地のアメリカンスクールに通ってた。

学校の中の雰囲気は、
アメリカに近いのかな?

そう、授業も英語だし、
週に一回だけ「日本の文化」っていう授業があるけど、
あとはアメリカとまったく同じ。

そうか、じゃあ、
日本語を勉強するってことはないんだね。

ひらがなは教わるけど、
あとは、「日本昔ばなし」の英語版とか、
折り紙をやるぐらいだった。

佐世保から、
横浜に引っ越したのはいつだったの?

18歳の時。
僕は、18歳で高校に入ったから。

おお!?
そうだったのか。

15歳の時にお父さんが亡くなって、
そうすると、基地の中のアメリカンスクールには通えないんだよね。

そうすると、
日本の学校に通うことになるの?

でも、日本の高校を受験しようにも、
日本語がわからないから、

アメリカの学校に進学しようとはしなかった?

最初は、アメリカの大学を受けるためのdegree(学位)
を取ろうと思って、家で勉強をしてたんだけど。
でも、自分の国籍をどっちにするかって考えた時に、
僕、アメリカの親戚も誰も知らないしな、と思って。

それで、
日本の学校に進学することにしたんだね。

で、17歳の時に、
日本語を勉強し始めた。

英語で受験出来る高校ってのはないんだ?

私立だったら、ある。
でも、経済的に、私立に行ける状態じゃなかったからね。

そうか。
定時制の高校に入った時は、入学試験はあったの?

あった。
一年間、ずーっと図書館に通って、
バカみたいに勉強した。
「漢字の実」っていう本があって、
小学一年生から六年生までの漢字をまず勉強してね。

あ、まず、
漢字を勉強するところからか。

そう、
ひらがなしか知らない状態だから。

いやー、、、
それは、スゴいところからのスタートだね。

高校に行くためにもお金が要るな、と思って、
一緒に、仕事も探したんだよね。
そうしたら、勤め先の会社が、
「横浜に来てくれ」って言って。

勤め先の希望で、横浜に引越してきたんだね。
それ、どんな仕事だった?

塗装会社だったんだけど、
その仕事っていうのが、横須賀基地の造船所で、
ミッドウェーの塗装をする仕事で。

それカッコいいな!
空母に入って塗装をしてたんだ?

そう、甲板を塗る時なんか、
その検査が、ものスゴい厳しかった。

滑走路がちゃんと出来てないと、
大変なことになるからね。

で、色んなことを指示されるんだけど、
職人さんで英語が話せる人っていないからさ、
その通訳をする人が必要だったみたい。

高校は、職場の近くに通ってたの?

横浜に引っ越すことになった時は、
もう、二次募集とかも終わってた時期で、
受けられる高校は、僕が行った、磯子工業しかなかった。

あ!
磯工だったんだ!?

どんな真面目な人が入っても、
不良になって出ていく、っていうウワサの。

ちょっと上の代くらいまでは、
そういうウワサだったなあ。

僕らの時は、だいぶ落ち着いてて、
割りと普通に授業をやってたんだけど。

その頃は、どこに住んでたの?

金沢八景の、会社の寮。
家族向けマンションだったから、3LDKに一人で住んでたね。

スゴい高校生だな!
バブリーな時代だったからってこともあるんだろうね。

そう、僕のためにテレビとかレンジとかも用意されて、
年二回、長崎に帰るための交通費も出してくれたし。

その仕事は、しばらく続けてたの?

2年ぐらいした後に、ミッドウェーはいなくなっちゃって、
その後、新杉田にある石川島播磨重工(IHI)で働いた。

高校生で既に、
自立してたんだな。

そう、
18歳から、実家に仕送りをしてる。

自分の学費を稼いだ上に、
仕送りまでしてたんだね。

そういうので、毎日忙しかったけど、
高校は面白かった。

定時制の高校って、面白いだろうね。
普通の公立高校と比べたら、
みんな、それぞれ違ったバックグラウンドを持ってそうで。

そう、すごくいろんな人がいた。
ただ、高校に行きたいけれど全日制の学校は落ちた、
っていう人が多かったから、
もう、ちょっとどうしようって思ったぐらい、
学力的にはヤバい。

それは・・どんぐらいヤバいの?

アルファベットが書けなかったり、
3桁の割り算になるとパニックになったり。
でも、先生がものすごく優秀だった。

あ、そう!

生徒の状況もよくわかってたし、教え方が上手だった。
1年の1学期の終わりに、面談を受けたんだけど、
その時、先生に、「お前は、大学に行け」って言われて。

おお!?

僕にとっては、高校に入ることが、
大学に入るぐらいの難しさだったから、
大学に行くことなんて全然考えてなかったけど、
「いいから、行け」って。

それはほんと、いい先生だな。

で、2学期から、先生たちがチームを組んでくれて、
放課後に、学校に残って勉強を教えてくれた。
それのおかげで、大学に進学出来たんだね。

中学校までアメリカの学校に通った後に、
日本の学校行って、やっぱり雰囲気って違った?

ギャップはあった。
アメリカンスクールの時、
僕はそんなに意見を言うほうではなかったけど、
それでも、日本の学校にいると目立つ。
意味がわからないことは、意味がわからない、
って言うから。

意味わからないことって、
いろいろあったの?

毎年、学校の旅行はスキーに行ってたんだけど、
毎年同じ場所に行く意味がわからない、って言って。
それは先生が楽したいだけだろう、って思ったから。

そうか。
雪山に連れていっておけば、
生徒が悪さをする心配もないからね。

それで、職員室に行って、
それは意味がわからないです、って。
当時は、「担任」って言われるぐらい、
よく職員室にいる子だった。

担任(笑)!
まあ、年齢もまわりよりちょっと上だし、
そういう感覚かもな。

そうしたら、やっぱり先生が優秀で、
「そうだな!」って言って、
ちゃんと他の場所もリサーチして、
次の年から沖縄に行くことになったんだよね。

おお!
スティーブの意見で学校の旅行先が変わったってのは、
スゴいな。

そういう関わりもあって、
いまだに高校の時の先生とはバーベキューしたりするし、
関係はすごく深かったと思う。

学校に行けるありがたさ

大学を卒業した後は、すぐ就職したの?

就職しなかった。
当時、すごくネガティブで、
自分が就職出来るなんて思わなかったんだね。
年が周りよりも3つ上だったし、ハーフっていうこともあったし。

なんか、アルバイトはやってた?

仕事っていうことでいうと、
英会話学校の、講師と生徒との間に立って、
生徒からクレームがあった時、それを英語で伝えられないから、
代わりに僕が伝えるっていうことをしてたり。

仲介役みたいな立場を、
その頃からやってたんだね。

「ああ、スティーブは英語が出来るからいいよね」って、
周りの人には言われてたんだけど、
それを聞くたびに、
「ああ、僕は英語を取ったら何も残らないのかな」って思ってた。

そうか。
英語のことが、逆に、
心の中で引っかかってたんだね。

で、その後、
次は、ニチレイの冷凍倉庫で働いてみた。

おお!
それは、、英語使わなそうだな。

まったく使わない。
で、やってみたんだけど、
そこも色んな人が集まるところで、
2つ以上説明をすると、1つ目を忘れちゃうような人が
たくさんいたんだよね。

そりゃ、仕事に支障出るね。

会社のほうも、さすがに、
これだけ人数がいて、これしか仕事が進まないのはおかしいでしょ?
っていう話しになって。
僕が、仕事が出来ない人を選んでリストラをする、
っていう担当になっちゃったんだよ。

うわーー、
それは、やりたくない役目だな。

そうすると、人のイヤなところが
いろいろと見えてきて。

あ、他の人も、
スティーブが担当になったって知ってるんだね?

そう。
突然丁寧な態度になって、
コーヒー飲みますか?とか持ってきたり。

わかりやすすぎるな(笑)!

そう、それがすごいストレスで、
もうこの仕事はイヤだなあと思って。
その頃にちょうど、金沢シーサイドにコストコが出来て、
そこに転職した。

うんうん。

コストコの後は、広告代理店で、
その次は、伊藤忠の人事。
で、その後に今の会社だね。
今のところは、もう6年もいる。

そう考えると、転職するごとに、
だんだん大きい組織で仕事するように
なったんだね。

15歳の時には、
将来こんな生活になるなんて思ってなかった。
日本語もできないし、見た目で日本人じゃないってわかるし、
日本の社会に馴染めないと思ったから、
たぶん、力仕事系の仕事に就いて生きていくんだな、
と思ってた。

15の時じゃ、将来どんなになるかなんて、
わかんないよね。
アメリカンスクールの友達は、
卒業した後は、どうしてる人が多いの?

当時、神戸にアメリカンスクールの高校があったから、
だいたい、そこに進学して、
その後、アメリカに戻って大学に行く、
っていうパターンが多かったかな。
僕もたぶん、そのままいけば、
みんなと同じように、神戸に行ってたと思うんだけど、
中学校を卒業する直前に、父が亡くなってしまったからね。

そうか。

その、学校に急に行けなくなるっていう辛さを体験しているからこそ、
今、ボランティア活動(※フィリピンの子供の進学支援)
に参加してるっていうのがある。

学校に行けない子供の進学をサポートしたい、
って思ったんだね。

自分が大学に進学する時に助けてくれた、
高校の先生たちがいてこそ、今の自分があると思うから、
その恩返しをしたい気持ちは、すごくある。

学校に行けるありがたさ、っていうのは、
なかなか、実感する機会ってないよね。
オレも、恥ずかしながら、まったく感じたことなかった。

CMSP(※フィリピンの孤児院)に初めて行った時、
子供たちが、親元を離れてはいるけれど、
住むところがあって、働かずに勉強に専念出来ることが、
ちょっとうらやましいって思ったことがある。

なるほどなあ。

僕は、授業をすごく受けたいけど
アルバイトに行かなくちゃいけない、
っていうようなことを、何度も経験してたから。

そういう、義務感で学校に行ってるんじゃなくて、
勉強がしたくて行ってる時って、
ものすごく勉強が楽しいだろうね。

学校の生活を、全部、無駄にしたくなくなってくる。
だから、修学旅行のことなんかも、
何も考えずに毎年同じ場所に行くことを、
疑問に思ったりしたんだと思う。

そうだな。
スティーブみたいに、アメリカンスクールから
定時制高校、公立大学に進学したっていう経験をした人は、
あまり、他にはいないだろうね。

前に、「自分の特性を知る」、っていう
ワークショップに参加したことがあって。

うんうん。

2日間のワークショップの終わりに、
それまでに出てきたキーワードをまとめて、
自分の「原動力」になっている部分を埋める、っていう時、
他の人は、「笑顔」とか「友達」とか書いていたんだけど、
僕がその時に、フッと思い浮かんだのは、
「コンプレックス」っていう言葉だったんだよね。

おお。
それは、面白いキーワードだな。

他の人たちからすると、かなりネガティブだったんだけど、
でも、人生を振り返ってみた時、
ストレートに進学出来なかったり、混血だったり、
コンプレックスだと思っていたことが、
実は自分の個性であり、武器なんだって気がついた時に、
バーッと視野が広がったことがあったから。
たしかに、原動力になってたんだ、ってわかった。

なるほどなあ。

昔はほんと、「普通」に憧れてて。
普通になりたいのに普通になれないことや、
目立つことがイヤでしょうがなかったんだけど。
今は、普通じゃないことが、楽しくてしょうがない。

ぶははははは!
いいねえ!

僕だから出来ることがあるんじゃないかと思って、
来週から13日間、CMSPの子供に英語を教えに行くんだけど、
そういう、自分の経験も伝えられたらいいって思ってる。

ファミリーの絆

お父さんは、
アメリカのどこの出身だったの?

(育ての父親ではなく)実の父親の出身は、
ノースカロライナ。

行ったことある?

ない。
ちょっと事情が複雑で、
実の父親は、1歳半ぐらいの時に離婚をして、
それっきり会ってなかったから。

じゃあ、全然記憶には残ってないんだね。

そう、
でもずっと、向こうのおばあちゃんが
手紙で連絡をしてくれてたから、
話しだけは聞いてた。

ノースカロライナに、
行ってみようと思ったことはある?

来年(2012年)、行こうかなーと思って。

あ、そう!?
なんか、きっかけがあったの?

facebookで、デニスっていう友達を検索した時、
偶然、叔父さんもデニスっていうんだけど、
叔父さんが見つかったんだよ。

facebookって、そういうことあるよなあ。
ものスゴい偶然だね。

で、メールをして。
20年くらい前におばあちゃんが亡くなった後、
アメリカとの連絡は途絶えてしまってたから、
叔父さんに、
「お父さんは元気にしてますか?」って聞くと、
「18年前に亡くなりました」っていうことだったんだね。

そうか。
それも、ずっと、知らないままだったんだな。

で、叔父さんと友達になったら、
「スティーブが見つかった!」って、
向こうのみんなに連絡したらしくて、
次の日、僕のイトコとか、親戚だっていう人から、
ワーって、20人くらいから友達申請があった(笑)。

ぶははははは!
誰とも連絡つかなかったところから、
いきなり、たくさんつながりが出来たんだね。

その、マッケンタイヤ(Mcintyre、スティーブの姓)の
ファミリーの集まりが、
毎年8月にあるみたいなんだよね。

あ、親戚一族の会合みたいなのが?

5代くらい前は、奴隷だった人たちなんだけど、
いったん奴隷解放でバラバラになった後に、
年に一回みんなで会いましょう、って、
100人ぐらい集まるみたい。

そんなに集まるのか!
さすが、アメリカはスケールが違うな。

それに、行ってみようかなーと思って。

それは絶対、行ったほうがいいよ!!
相当面白い体験になると思うよ。

向こうのノリについていけるか、
わかんないんだけどね。

あーー、
しかも、南部のノリだからね。
またちょっと違うんだろうな。

そう、どうなるかわかんないんだけど、
僕もマッケンタイヤデビューをしようかな、
と思ってる。
(2011年12月 川崎「WIRED CAFE」にて)

清水宣晶からの紹介】
「弟キャラ」と「お兄さんキャラ」という分類があるとしたら、スティーブは間違いなく、面倒見のいい「お兄さんキャラ」だ。一人ぼっちでいる人や、寂しそうにしている人を見たら、放っておかずに自分が何とかしようとしてしまう。
それは、彼自身が人一倍、人とつながることや、所属する場があることの喜びを知っているからなのだと思う。

僕とスティーブは、お互いに横浜の近い場所に住み、同じ時代を生きたという共通点があるけれども、見てきたものはまるで違っていて、その話しを聞くのは、ものすごく面白かった。
佐世保、横浜、そしてノースカロライナという、それぞれの街にルーツを持つ、スティーブにしか伝えられないものは、まだまだ、たくさんあるに違いない。

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