中村文則

小説家。
1977年9月2日、愛知県東海市生まれ
1996年、愛知県立東海南高等学校卒業。
2000年、福島大学行政社会学部、応用社会学科卒業。以後、作家になるまでフリーターを続ける。
2002年、『銃』で第34回新潮新人賞を受賞してデビュー。
2004年、『遮光』で第26回野間文芸新人賞を受賞。
2005年、『土の中の子供』で第133回芥川賞を受賞。
2007年、カメかダンゴ虫になりたい、と思う。(なんとなく)
2010年、『掏摸(スリ)』で第4回大江健三郎賞を受賞。
(2008年11月 新宿ゴールデン街にて)

体験しなかったことを書くということ

(清水宣晶:) これはまた、、
スゴい渋い店だね!
場所からして、なんか混沌としてるよ。

(中村文則:) 新宿はね、ほんと面白い飲み屋がたくさんある。
連れてってもらうばっかりで、
実はあんまり詳しくないんだけど。

表現を仕事にしている人で、
混沌を創造の源泉にしているというか、
「人生、もめごとがあってナンボ」みたいな考えの人っているでしょう。
中村さんは、そういう、
事件を求めてる部分ってある?

そういうのを、
書くために自ら求めても上手くいかないんだろうと思う。
何か書くために経験したい、
とは、思わないかな。

そうだね。
自分で狙って経験出来てしまうほどのことって、
あまり大したことじゃなくて。
本当に大きな混沌や転機って、
来る人のところには、来るべき時に、
避けようもなく向こうからやって来るものって気はする。

そう、結局ね、
自分の中から出てくるものでしかなくて。
自分自身の体験を書くこともあるけど、
それを材料に、想像しても書く。

まったくのフィクション、
ていうわけじゃないんだね。

やっぱり材料がなければダメなんだけど、
想像だけで書いてもリアルじゃない。
でも、現実にあった話をそのまま書くよりも、
それを材料にしてフィクションに包んで書いた方が、
よりその現実に近づけることもあるし。
色々混ざるかな。

なるほど。

もし、全部体験したことしか書いちゃいけないんだったら、
ドストエフスキーとか、カミュとか、サルトルとか、
昔のいい小説を全部否定しちゃうことになる。
彼らは、人を殺したことはないわけだから。

そういうことになっちゃうよね。

でも、自分の中に何もそういう感覚がない人が書いても失敗するわけで、
事物の直前までは行く。
直前まで行けば、行った先のことが、
行った時よりもわかることがある。

直前まで行く、っていうのは面白いなあ。
「銃」に、

電車の中で、男を撃ち殺す場面があったけど、
あれは、自分の中に、
原形となるような経験はあったの?

あの小説を書いてた時、僕は、フリーターで、
週に4日だけ働いて、それ以外の時間は全部、執筆をしていて。
小説を書くために、自分は人生を犠牲にしている、
っていう感じがあって、
その時、自分は文化に振り回されている、と思ったんだね。

なるほど、なるほど。

あの時は本当に、人生にイヤになったし、
なんでこんなに小説に振り回されてるんだろうって思ってたけど、
その、「小説っていう文化に振り回されている男」を
そのまま書いても面白くはないんで、
「拾った拳銃に翻弄される」っていう形にして書くわけです。
すごく簡単に言うと。

ありのままではなくて、
少しズラすんだね。

人を殺した人が、
人を殺すということの真実を掴んでいるとは限らなくて。
ある程度の想像力と、細部まで見るための目がないと、
本質はわからないものだから、
当事者の人間が、常に本当に自分のことをわかっているとは限らない。
変な話、人を殺した人が、
ちゃんと人を殺すという現象を把握できるとも限らない。

ホントそうだ。
経験だけじゃなくて、
想像力と目が必要っていうのは、
すごくよくわかるよ。

小説という形にする意味

中村さんは、今感じているような問題意識って、
学生の頃から感じていた?

高校生の時とかは特に、
世の中がすごくイヤで、鬱々としてた。
自分が満たされてるな、って思ってたら、
小説なんて書いてないんじゃないかな。

そういう自分の気持ちを書く、
っていうところから書き始めたの?

作家になる前は、
日記の延長として、自分自身の思いを書いてて、
それを言葉にして、把握して、対処するってことを繰り返してた。
自分が何を悩んでいるかがわからないと、対処しようがないからね。

僕も、何かすごくツラいことがあったような時って、
人に相談しようと思うよりも先に、
その時の気分が薄まらないうちに
出来る限り細かく書き出して記録することで、
気持ちを整理しようとする。

それは、素晴らしい習慣だと思う。

だからその、
自分の内面を表す言葉を書き出したい欲求、
というのはわかるんだけれど、
それとは別に、フィクションである物語を作るっていうのは、
何のためにやることなんだろう?

たとえば、自分の闇をめちゃくちゃ書くとするでしょう。
誰にも読ませないという前提で。
そうすると、怖ろしい真実が浮き上がってくるわけですよ。
でも、それをそのままの形で書いても、
その真実が人に伝わるかどうかってのは、不明で。

なるほど。

それを、血肉がある人間が考えているという設定にして。
彼がこう言って、こう考えて、
ってことを物語や小説という形を通して書くと、
人に伝わりやすくなる。

「これは、ある友達の話しなんだけどさ」ってふうに、
第三者的に話したほうが伝わるってことあるね。
中村さんって、昔に、
誰にも読ませないという前提で書いたものって残ってる?

残ってるけれど、
それ見せたら、即入院になるね。

(笑)他の人に理解してもらうために書いたものじゃないものね。
でも、その時に書いたものが、
小説を作る時の、貴重な源泉になってるんだと思うな。

素晴らしいマンガ論

清水さんは、
一番好きなマンガを挙げるとすると何になる?

んー、、一番好きというと、
やっぱり岡崎京子になるかな。
「ヘルタースケルター」とか「リバーズ・エッジ」とか。

この前、友達とマンガのベスト5の話しをしたんだけど、
僕が一番に挙げたのは、
つげ義春の「ねじ式」で。


おぉ!?
「ねじ式」!
それは意表を突くなあ。

あれほどね、思春期を見事に描ききった作品は他にない。
(メメクラゲや、イシャや、ねじの意味についての話しが続く)
あれは完璧だと思う。
読んだ時に、ホント驚いた。

その、中村さんの解説がスゴいよ。
なんか夢の中っぽい世界観だなあって思ってたけど、
そんなに深い意味があったとは知らなかった。

つげ義春本人も、
「あれは夢の中の話しです」って言ってるけれど、
それは恐らく彼特有の照れで、
実は、相当計算して描いてると思う。

中村さん、
「ONE PIECE」も好きだったよね?

そう、「ONE PIECE」がスゴいのは、
ジャンプシステムを完全に踏襲しつつ、
新しいことに挑戦しているっていうところで。

ジャンプシステムってのは?

「5対5」っていう対決とか、
「努力・友情・勝利」っていう三大原則。

(笑)なるほど、なるほど。
そういわれてみれば、「キン肉マン」も、
「ドラゴンボール」も「聖闘士星矢」も、
5対5の闘いってのが基本だね。

それでいて、ギャグも取り入れつつ、
常に読者を惹き付けるのは素晴らしいと思う。

ジャンプのマンガって、長期連載になると
途中から中だるみになること多いけど、
「ONE PIECE」って、クオリティーが下がらないよね。

よく考えてる。
よく週刊であんなこと出来ると思う。
「ONE PIECE」で一番スゴいと思ったのは、
ルフィの内面描写が一つもないってことで。
ゾロとかサンジとか、登場人物はみんな、
頭の中で考えてることが言葉として出ているのに、
ルフィだけはそれがまったくない。

えぇ!?
ルフィの内面描写・・
そう言われてみればそうかも!!

ある時、
「これ、内面描写が一つも無いんじゃないかな?」って思って、
僕、1巻から読み返してみたんだけど。
そしたら、ホントになかった。

ぶははははは!
そりゃスゴいわ!

何を考えているかわからない主人公にみんなが引きずられてるんだけど、
だから、ある時ふっと、
ルフィが考えていることを言った時の発言に重みが出て、
それによって感動も増すわけで。

なるほどなあ。
それに気づくってのもスゴいし。
それをネタに、小説じゃなくて、
論文が一本書けそうだね。

(笑)これは、きっと書けると思う。
(2008年11月 新宿ゴールデン街にて)

清水宣晶からの紹介】
中村さんは、はっきりとした自分のスタイルを持っている。
バーに入れば必ずジントニックをたのみ、タバコを真ん中近くで挟んで持ちながら、ややうつむき加減に、丁寧に言葉を発する。
一つ一つの所作に、香りたつような雰囲気があり、新宿のゴールデン街にこれほどしっくりと溶け込む人は、僕らの年代ではあまりいないと思う。

派手好みなところがなく、ストイックすぎるまでに真剣に、小説や純文学という表現形式について常に考え続けている。
そして、酒を飲みながら、くつろいだ気分の時には、人生論のような話題はもちろん、文学とはまったく縁もゆかりもない話題を出しても、ポツリポツリと熱を入れて語ってくれる幅の広さがある。

中村さんの書く小説は、普遍的なテーマを扱いながらも、他のどこにもない、彼にしか書けない世界を創り出している。それは、小さなブロックを一つずつ積み上げるような、粘り強い取り組みから生み出されているものなのだろうと思う。

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